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ジークンドー演武開催
【北見市武道館 武道祭】
ジークンドー截ラボ北見 演武開催!
ブルース・リー創始 「ジークンドー」 フィリピン武術 「エスクリマ・カリ」
スピードと実戦性を追求した武術を披露します。
■ 6月20日(土) ■ 10:30~11:00 ■ 北見市武道館
ぜひご来場ください!
「護身術」の幻想
日本は長らく「安全な国」と言われてきました。だが近年、その空気に微細な亀裂が入り始めています。
無差別刺傷。駅構内での襲撃。通勤電車での刃物事件。ハンマーによる突発的暴行。ストーカー型殺人。
しかもそれらは、武器を持った“プロの犯罪者”ではなく、社会的孤立や精神的崩壊を背景にした“普通の人間”によって突然行われるケースが増えている。
これは極めて重要な変化です。
従来の武道や格闘技が想定していた「勝負」は、ある意味で秩序が存在する世界だった。
開始があり、間合いがあり、構えがあり、心理的準備がある。
しかし現代の凶悪犯罪には、それがない。
突然、ゼロ距離で始まる。
怒号もなく始まる。
刃物が先に出る。
しかも相手は恐怖や合理性を失っている。
つまり現代の護身に必要なのは、「強さ」ではなく、
・初動反応
"・認知速度
・接触下での制圧
・至近距離対応
・パニック環境下での身体機能維持
なのである。
そして、この条件を本質的に満たしている武術体系は、私は極めて限定的だと考えています。
「強い武術」と「生き残る武術」は違う
ここで、多くの人が誤解している点を整理したい。
リング競技で強いことと、現代犯罪に対処できることは別問題である。
例えばスポーツ格闘技は極めて洗練されている。
しかしその多くは、
・ルール
・階級
・グローブ
・開始距離
・反則規定
という“文明”の上に成立している。
一方、駅ホームで突然ナイフを出される状況には、文明がない。
そこに必要なのは「試合能力」ではなく、
“生存反応として機能する身体”
である。
この観点から見ると、伝統武道にも課題が見えてくる。
多くの武道は「型の継承」に重点を置く。
しかし現代犯罪は、型通りに襲ってこない。
むしろ重要なのは、
・崩れた姿勢
・驚愕状態
・接触反応
・視界不良
・群衆環境
など、“壊れた状況”で動けることです。
ジークンドーの本質「型を捨てる」のではない“現実に従う”
ブルース・リーが提唱していたのは、
「型に依存した瞬間、人は現実に負ける」
ということだった。
ジークンドーの核心は、“インターセプト”(迎撃)にある。
つまり、
攻撃されてから戦うのではなく
相手の攻撃発生そのものを潰す
のである。
現代凶悪犯罪では、この発想が極めて重要になる。
なぜなら、刃物犯罪において「受けてから対応」は致命的だからだ。
ジークンドーは、
・非予測性
・初動速度
・先制制圧
・ライン破壊
・逃走確保
を重視する。
これはまさに、現代護身の現実解である。
しかもジークンドーは、状況適応を前提にしている。
・床が滑る。
・バッグを持っている。
・子供を連れている。
・狭い。
・暗い。
・複数人いる。
そうした「崩れた条件」の中で機能する。
これは競技最適化とは逆方向の思想だ。
「護身術」を名乗るものの多くが危険な理由
現代では「女性でも簡単」「5分で護身」などの言葉が溢れている。
だが、現実はそんなに甘くない。
刃物を持った人間は恐ろしい。
本気の暴力は、人間の認知を凍結させる。
実際、人間は強い恐怖下で、
・視野狭窄
・硬直
・呼吸停止
・判断低下
を起こす。
つまり「技を知っている」だけでは役に立たない。
必要なのは、
“恐怖下で機能する神経系”
である。
ジークンドーが優れているのは、単なるテクニックではなく、
・感覚統合
・圧力適応
・接触反応
・実戦距離
・生理反応下での運動
を扱っている点にある。
これは「武術」というより、“暴力環境工学”に近い。
結論 : 護身に必要なのは「生存学」
これからの日本では、「平和前提」の身体観だけでは危うい。
もちろん、暴力を求める必要はない。
むしろ逆だ。
本当に護身を学ぶ人間ほど、
・危険を避け
・エスカレーションを防ぎ
・逃げ道を確保し
・戦わずに終える
ことを重視する。
だが、それでもなお。
もし避けられない暴力が来た時。
その瞬間、人間に必要なのは“綺麗な技”ではない。
触れた瞬間に崩れず、
恐怖の中で動ける身体。
その点において、ジークンドーは、極めて「現実対応型武術」であると、私は考えています。
実戦武術のパラドックスと武道的知性
実戦武術において危険な技をあえて修得する真の目的は、相手を倒すことではなく、技術と理性を統合させて「使わない選択」をするための精神的余裕を持つことにあります。
護身の現場では、攻撃を知らなければ防御や回避が不可能であるため、致命的な弱点を克服する知識として高度な技を学ぶ必要があります。
同時に、力を持つ者には社会的・法的な責任が伴うため、過剰防衛を避け、事態を悪化させないための冷静な判断力が不可欠です。
武術家のリテラシーとは、単なる身体能力の向上にとどまらず、法や倫理を理解した上で力を制御できる成熟した精神性を指します。
最終的に目指すべきは、切り札を保持しながらも、**必要以上のダメージを与えずに平和的に状況を収束させる「止められる力」**の獲得であります。
このように、現代の武術修行は、高い技術を習得した上でそれを使わずに済む状態を追求するという逆説的なプロセスなのです。
原点は衝撃――私の修行と、「人間に年齢はない」という実感について
ジークンドー“飾り気のない基礎”──ブルース・リーが構築した純粋戦闘システムの本質
ジークンドーの精神的独立~組織を離れるという行為の哲学的意義
ブルース・リーの哲学「Be Water」とは? ― 詠春拳・ジークンドーから読み解く武術と人生論
【武術を学ぶ者の意欲と信念】
2024年6月から北見でジークンドーを教え始めました。
一番最初に入門した女性がいます。
彼女は、週2回の稽古をまだ一度も休んだことがありません。
彼女はこう言いました。
「意外とみんな稽古を平気で休むのですね」
何かを学び身につけたいと思うなら、意欲と信念が必要だというのが私の信条である。
武術を学ぶ道は、単なる技の習得にとどまらない。
それは己を知り、己を超えるための果てなき旅である。
意欲とは、日々の稽古に向かう心の炎である。
身体が疲れても、心が迷っても、「なぜ自分はこの道を歩むのか」という問いに答える力が、意欲の根となる。
それは他人との競い合いではなく、昨日の自分を超えようとする静かな決意である。
信念とは、その意欲を支える不動の軸である。
厳しい稽古の中で、恐れや疑いに打ち勝ち、正しい道を信じて歩み続ける力。
武術の真髄は、外にある敵を制することではなく、内なる弱さを制することにある。
信念を持つ者は、勝敗に揺れず、結果に惑わされず、ただ一歩一歩を確かに積み重ねていく。
意欲が前へ進ませ、信念がその道を照らす。
この二つが揃ったとき、武術は単なる技から「道」となり、
学ぶ者は戦う者から、調和を生きる者へと変わっていく。
私の生徒にはそれを伝えつづけます。
